東京モーターボート倶楽部 [2020年05月15日]
カテゴリーその他
今回は日本の話、昭和初期のことで私もまだ生まれていない。先輩に聞いた話と、2冊の本から得た知識です。2冊の本の内の一つは財団法人マリンスポーツ財団が1993年(平成5年)に発行した「30年のあゆみ」、そしてもう一冊は北区飛鳥山博物館研究報告第11号(東京都北区教育委員会2009年(平成21年)発行)である。この北区飛鳥山博物館研究報告第11号に北区史を考える会会員の領塚正浩氏が「王子区豊島町にあった東京モーターボート倶楽部」という報告を載せられている。今回の内容はこの2冊の文献からの引用で、写真も無断で使用しているので、このページは見るだけにしていただき写真をコピーしたり、転送など行わないでください。
日本で最初にモーターボートが造られたのは1910年(明治43年)で、石川島造船で製作された24フィート排水量型と記録されている。(「30年のあゆみ」より)その後大正年間には隅田川造船、月島造船、横浜ヨットなどでも作られていたがいずれも業務用として使用されていたようで、個人向けではなく、いわゆるレジャー用のモーターボートはまだなかった。
昭和に入り欧米より娯楽用モーターボートが流行しているニュースがマスコミを通じて日本に入ってくるようになると、当時の富裕層の一部の人たちが興味を示しモーターボートを持つようになった。そして早くも1931年(昭和6年)7月26日に隅田川で第1回船外機艇競走大会、日本で最初のモーターボートレースが開催されている。また同年11月には第1回水上速力公認会が、1934年に第2回が行われている。
第2回水上速力記録会でE級の日本記録73.71km/hを達成した石井金一郎氏の走行と優勝カップ
こうした同行の士が集まりクラブを設立しようということになり、1933年(昭和8年)4月29日「東京モーターボート倶楽部」が設立され、隅田川沿いに立派なクラブハウスも建設された。場所は当時の東京市王子区豊島町1126番地、現在の北区豊島7丁目31番地付近である。
設立当初の会員数は44名、保管艇は36隻であった。倶楽部の会長に御法川三郎氏、理事に石井治雄、石井金一郎、伊東平次郎、高梨栄、飛島繁の各氏、事務長に原田綱嘉氏が就任した。入会金50円、月会費5円、艇の保管料月5円であったそうだ。
船外機 「天城」 誕生
ほぼ同時期に、三田四国町でカマボコのすり身を作る機械を製造していた石川工場の石川治雄社長と技師長の手塚英二氏が共同で、日本で初の船外機「天城」を開発した。2サイクル2気筒水平対向326ccのこのエンジンは石川社長の所属していた東京モーターボート倶楽部に常備され会員艇のエンジンとして使用された。ところが天城の製造年については資料ごとに異なった記録が載っており定かでない。1928年、1932年、1933年の各説がある、一方1932年の船外機競走大会に出場したが不調で棄権、1934年の記録会で国産船外機の日本最高記録30.899マイル達成と記録されている。推測であるが1932年に出来上がっていたがさらに改良が加えられ1933に実用化完成したと考えられる。
日本発の国産船外機「天城」
同時期1933年(昭和8年)、原田綱嘉氏は12.5フィートのランナバウトにエビンルード30馬力を搭載したモーターボートで大島岡田港から東京の霊岸島まで106キロメートルを4時間30分で走破した。この快挙は新聞などを通じて紹介されモーターボートの啓蒙に貢献した。
東京モーターボート倶楽部が設立された後は、そのクラブハウスがベースとなり、モーターボートレース、記録会などが毎年活発に行われた。また、1933年(昭和8年)には、クラブハウス前をスタートし隅田川をさかのぼり、岩淵水門から荒川に出て下流に向かい、綾瀬水門から隅田川に戻って上流のクラブハウス前に戻る、1周15マイルのコースを2周するマラソンレースも行われた。
しかし軍は1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件を起こし、やがて日支事変・日中戦争と発展したため、1938年にはガソリンが配給制となり、個人のモーターボート用の燃料は入手困難となってしまった。その結果、東京モーターボート倶楽部の活動は実質約5年間で終了した。