ハトラス物語 ② [2020年10月29日]
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そのころWillis Slaneはマイアミに行くチャンスがあった、そしてそこでファイバーグラスという新しいテクノロジーを使って高速ボートを造っているドン・マックロ―に会った。マックローの作ったコルベットのエンジンを2機積んだ27フィートのランナバウトは2年前のマイアミ―ナッソーレースで優勝している。新しいことにチャレンジすることの好きなWillisはその素材ファイバーグラス(FRP)に興味を持ったがその強度には半信半疑であった。第一その名前からして弱そうだ、fiberはぐにゃぐにゃした感じがあるし、ガラスは粉々になる。
マックロ―はこのボートを波の中で思いっきり走らせて壊してみろとWillisにけしかけた。よしきたとWillisは外洋に出て思いっきり乱暴に運転した、そして40ノットオーバーで波の中に突っ込んだ、しかしなんともない、このボートにダメージを与えることはできなかった。Willisはすぐに悟った、そしてこのテクノロジーを使ってハトラス岬を安全に越えられるボートを造ろうと決心した。
1959年秋、Willisは自宅近くの自動車ディーラーの大型車庫を借りFRPクルーザーの建造を開始した。新進デザイナーのジャック・ハーグレーブに設計を依頼し、マックロ―にも来てもらいFRPの技術指導を受けた。熟練の家具職人を集めて協力を依頼した。
翌年(1960年)の春 41フィートのFRPクルーザーは完成した。全長41フィート、幅14フィート、リンカーンV8 275馬力2機を搭載したこのボートはWillisの妻ドリスにより「Knit Wits」と名付けられた。
Knit Wits
ハイポイントから300km離れた大西洋岸のモアヘッドシティまで大型トレーラで運ぶのに3日間かかったが、1960年3月22日Knit Witsは無事進水した。Willsは営業マンとしても優秀で、この進水式に多くの友人、知人を招き、試乗をしてもらいその日のうちに7隻の注文を獲得、進水式は大成功であった。
Willsはさっそく新会社「Hatteras Yachts」を設立し、ここに新しいFRPクルーザービルダーが誕生した。
1962年1月のニューヨークボートショーに「Hatteras 41 Convertible Yacht Fisherman」と名付けられたこのモデルが出展された。当時のトップメーカーのクリスクラフトの50フィートクルーザーは木製であったので、唯一のFRPクルーザーとして大評判となり、ニューヨーク中の新聞が書き立てたので「Hatteras」の名は米国中に知れ渡り、確固たる地位を気付くことが出来た。工場もガレージでは間に合わず新設された。
事業は順調に発展し、High Pointでは大型艇の建造が困難であるので、1967年ハトラス岬に近い川沿いのNew Bern市に第2工場を建設、その後ハイポイント工場は廃止され、ニューバーン工場に統合、本社機能もニューバーンに移して現在に至っている。
1984年「Knit Wits」はレストアされた。エンジン、航海計器、備品などは新しいものに交換されたが、FRPの船体、デッキは手を加える必要が無く、原形のままであった。
「Knits Wits」は、現在もニューバーン工場のテストドックに係留展示されていて、ファクトリーツアーの訪問客を楽しませている。
1984ニューモデル 50MYと並走するレストアされたKnit Wits