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日本のボート事情 ②FRPボートの始まり

日本のボート事情 ②FRPボートの始まり [2020年12月07日]

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前回は船外機の話であったが、今回はボートについて書いてみよう。

戦前、戦中は多くの軍用艇が開発されていた。魚雷艇、警備艇、連絡艇などなど、中には特攻艇「震洋」もあった。

1950年代はまだ木造艇の時代でレジャー用のモーターボートや小型セーリングクルーザーなどがポチポチ造られていた。大手のメーカーはまだなく各地の小型造船所が主体であった。石川島の子会社IHIクラフトがしいて言えば大手と言えよう。当時はレジャー用のボート、ヨットはごく一部のお金持ちのみの物であった、力道山や三船敏郎も油壷や諸磯に小型クルーザーを保有していた。

また、1950年代の日本はボート・ヨットの輸出国で通常の木造艇に加え、合板製の小型ランナバウトが、西は永大産業、東はIHIの子会社のパシフィックボートで量産され米国に輸出されていた。

 

1960年代に入るとFRPボートの時代になる。50年代の終わりごろに米国からFRPボートの技術が導入され、日東紡などの合繊メーカーがボート事業に参入した。

1960年 ヤマハ発動機がCAT-21、RUN13を発表し、本格的なFRPボート時代が始まった。CAT-21は1961年の第一回大阪―東京マラソンレースで全行程でトップを譲らず優勝し、FRP製CAT-21の優れた性能、強度を証明した。

CAT-21

 

ヤマハ発動機では同時にバートラム船型に注目していて、実艇より寸法を測り線図を作成しさらに手を加えてヤマハのディープV船型を開発した。(悪い言い方をすれば模造品を作ったわけであるが、良いものをまねすることは開発のあたりまえの手段である)

1962年、こうして開発されたSTR-18が第2回大阪―東京マラソンで優勝し、1963年にSTR-18SP(ストライプ18スポーツ)、STR-18CR、STR-15が発売された。米国ではラップストレーキと呼ばれていた船底の縦のスジをストライプと呼んだのはヤマハのアイディアで、その後日本では一般に使われるようになった。

STR-16

このストライプシリーズは、東京湾や大阪湾のチョッピ―な波に強く人気を博した。STR-18CRはバウにクルーが2人乗らないとプレーニングに入れないバランスの悪い艇であったが、18フィートのキャビン付きということで人気があった。私が名艇と思うのはSTR-18SPでとても素晴らしい走りであった。またSTR-15は船外機艇でその軽やかな走行性能が優れていた。その後STR-16(船内外機艇)が発売され、さらに1971年のボートショーでSTR-25FBが発表されるとボート市場はさらに活発となった。

STR-25FB

 

この時期ヤマハ以外でも日本飛行機、永大産業、スズキ自動車、さらに新たなメーカー、コマンドクラフトやガルーダも誕生した。また輸入も盛んになり、バートラム、スタークラフト、ベイライナー、コロネット、フィヨルド、グランドバンクスなどなどが輸入されまさに百花繚乱、ボーティングがどんどん拡大していった。

1963年に開業したシーボニアマリーナにはテレビタレントの前田武彦や吉村マリなどが集まり大賑わいであった。

 

またこのころヤマハのハイフレックス11/14に続いて各社が11フィートから14フィートのランナバウトを数多く作り、ボーティングは都市部だけでなく地方の有力者にも愛好された。ジャズ、ポップス、ハンバーガー、コーラ、ファッションなど怒涛の如く広がったアメリカ文化の波に乗ってモーターボート、水上スキーが瞬く間に広がっていった。欧米のボート先進国と同様に、一部のお金持ちからさらに多くの人たちに拡大した。

 ハイフレックス11

 

モータボートの生産も、1965年には2,700隻であったものが1971年には27,000隻になり、輸出用のゴムボートを除いても10,000隻以上が国内販売されたわけである。

モーターボート生産統計(日本舟艇工業会)1970~1979

 

 

 


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