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鄭成功

鄭成功 [2021年06月16日]

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鄭成功の父鄭芝龍は海賊(和寇)の親分で、長崎県平戸に住み、そこで田川マツとの間に男子を得た、1624年8月に生まれたこの長男が鄭成功で、7歳まで父と共に平戸に住んでいたが鄭芝龍と共に元の本拠地、中国福建省厦門に帰った、艇芝龍は海賊をやめ、明の地方軍となった。

 

1644年王朝が明から清に代わった。当初は人口が圧倒的に少ない満州族・清が大中国を支配できるか?明の復興もあるのではないか?と不透明な時があったが、やがて清の支配が確立すると、鄭芝龍は熟慮の結果自分は清に仕える、成功は明の復興に復興に賭けろと決定した。このように親子、兄弟が二派に分かれることは中国ではよくあることで、どちらが勝っても一族が残るための知恵である。

 鄭低 成功

 

1658年、鄭成功は北伐群を起こし南京を攻めたが敗退、厦門に引き返した。ある日厦門島のわきにある小島コロンス島のてっぺんにある巨岩「日光岩」の上に立ち東を見た鄭成功は、そうだ台湾を支配して明復興の拠点にしようと決心した。

当時の台湾は、東アジアへの貿易の拠点としての位置にあったので西洋の強国が狙っていて南部にオランダが、北部淡水や基隆にスペインが城郭を築いた。やがてオランダが北部のスペインを駆逐し、台南を拠点として台湾を支配していた。

 

1661年、鄭成功の軍船は大潮の満潮を利用して、台南の港安平港に進入した。

 案平港

安平港には浅瀬が多く大きな軍船が入ることはできないと思っていたオランダ軍は慌てて近くのゼーランジャ城にこもり防戦した。鄭成功は戦艦からの艦砲射撃で脅し、陸戦隊を上陸させて戦った。そして翌1662年オランダを台湾から駆逐することに成功、台湾を支配するようになった、鄭成功自身はその年に熱病にかかり没したがその息子鄭経が遺志を継ぎ20年余り台湾支配をつづけた。

安平古堡 ゼーランジャ城跡 煉瓦はオランダの製法を使ってフィリッピンで作られた

 

しかし、清は明復興を唱える鄭政権を良しとせず1683年大軍を送り鄭一族を滅ぼした。これから1895年に日本が支配するまでの約300年間台湾は清のものであった。

 

鄭成功は台湾ではオランダから台湾を救った英雄としてあがめられており、日本でも近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」の主人公として知られている。

 

 

 


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