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TYIA 台湾ヨット工業会

TYIA 台湾ヨット工業会 [2021年07月02日]

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このヨットは日本語のヨットではない、英語のYACHTすなわち私的に所有、使用される船で比較的大型(およそ50フィート以上)の艇をさす、Super Yacht、Mega Yachtなどに使われるYachtである。

台湾にFRPボートの生産方法が導入されたのはかなり古い、1960年代後半でほぼ日本と同時期である。最初にFRP艇を作ったのは台湾北部、淡水の大橋造船と言われている。

そして1970年頃、当時米国で最大のボートビルダーであったクリスクラフト社が基隆にボート工場を設立した。この工場はおよそ5年ほどで撤退してしまったが、そこに導入された当時の最新のFRP艇製造技術、材料、作業員が得た技術は台湾中、南部の台南や高雄にも広まり、その後の台湾ヨット工業の基礎となった。また、工場長であった葉立華氏はヨット工業の指導者となった。

 クリスクラフト工場 基隆

 

台湾のヨット工業は最初から輸出産業であった。これは1949年12月蒋介石と国民党が台湾を支配して以来戒厳令が敷かれていて、海岸線は封鎖された。銃を持った兵士が巡回しているのでボートで海に出ることはできなかった。漁師ですら特別の鑑札が無いと漁に出られない、もし誰かがボートで海に出たらたちまち高速監視艇(シガレットのようなパフォーマンスボートに機関銃を備えたパトロールボートを軍は多数保有していた)に打たれて沈められていたであろう。というわけで国内にボート市場は生まれなかったので、作られたボート、ヨットはすべて輸出された。(戒厳令は1987年にようやく解除された)

 

1970年代、80年代にボートビルダーは徐々に増えてピーク時には70社に及んだ。そして1981年台湾ヨット工業会(Taiwan Yacht Industry Association T YIA)が設立された。

バブル時代には日本にも多くのクルーザーが輸出されたが、品質が低く「台湾ボート」は安かろう、悪かろうの代名詞とされていた。そしてバブル崩壊、1990年代の前半はアメリカの景気も悪く、大型艇には奢侈税が掛けられルなど、ボート業界にとっては苦難の時代であった。台湾も当然その影響を受け、半数以上のビルダーが廃業、業界からの撤退を余儀なくされた。しかしここで残ったビルダーは頑張った。海外からの新技術や機械・道具の導入、エンジニアの海外派遣などを行って品質向上に努めた。例えばOcean Alexanderの2代目Jonyはアメリカに留学し、そして社長になってから品質に着目し、シアトルに専用の整備工場を作り、そこですべてのボートを再整備してアメリカの品質基準に合わせて出荷した。HoraizonのJohn Lue社長は工場にITを使った製造方式を導入した。

その結果2000年代に入ると自社ブランドでの輸出が可能となった。欧米市場が台湾ボートを認めたわけである。HorizonとOcean Alexanderは米国のボートショーにも出展された。

2011フォートロダデールボートショー オーシャンアレキサンダーブース 展示されたオーシャンアレキサンダー90

 

さらにボートの大型化が進み、2000年代後半にはスーパーヨットの世界に入っていった。これは成功し、世界のスーパーヨット生産国のベストテン、おそらく6・7位、に入っている。また中国にも進出、中国の第2工場では60フィート以下の製造を行うようになった。

 

そして2014年、台湾国際ボートショー「台灣国際遊艇展」を高雄市の港湾地帯を再開発してできた高雄展示センターで開催した。主催者は台湾国際貿易局と高雄市となっているが実際にはTYIAとTAITRA(中華民国対外貿易発展協会)の共同運営である。この高雄展示センターは大きな展示館で、特に南館は柱が1本もない広く、天井が高いスペースである、搬入口の幅も高さ(18m)も十分にあり、100フィートのスーパーヨットも入れることが出来る。

「スーパーヨットを館内で見ることのできる世界唯一のボートショー」がキャッチフレーズ

 

 TYIAのさらなる発展を期待する

 

高雄展示センター 左が柱のない南館

大型艇がぎっしり展示された

 Horizon 100


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