競艇の始まり 原田綱嘉氏+東京ボート倶楽部メンバー [2021年07月31日]
カテゴリーその他
笹川良一氏(1899-1995)は戦後戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた。その時LIFE誌に載っていたモーターボートの記事を見てモーターボートに興味を持ったと言われている。3年後の1949年に不起訴となり解放されると直ちにモーターボート競走の法制化の活動を開始した。当時は1946年に競馬が復活し、1948年には競輪が(自転車競技法成立)また、オートレースも1950年に公認された。この流れに乗って笹川氏は知人の議員の協力を得て「モーターボート競走法」の実現に努力した。1951年「モーターボート競走法」は衆議院で可決され参議院に送られたが参議院では否決され再び衆議院に差し戻され、2/3の賛成を得て復活成立した。
こうしてようやく法律はできたが、実際にどのようにレースを行えばよいか笹川氏達には知識が無かった。競馬は戦前に行われていたので復活は容易であった。競輪は新しいレースであったが、ほとんどの人が自転車に乗ることが出来たし、アマチュアの自転車レースも行われていたので比較的容易に開始できた。しかし、モーターボートレースは簡単ではなかった。第一にモーターボートに乗ったことがある、操船したことがある日本人ほとんどいなかった。戦前一部の富裕層がモーターボートのレースを楽しみ、東京モーターボートクラブを作ったのが唯一の例外であった。「モーターボート競走法」を成立させた人達は㈶舟艇協会に協力を依頼した。舟艇協会は運輸省船舶局と協議し東京モーターボート倶楽部の事務長であった原田綱嘉氏を派遣することに決めた。
東京モーターボート倶楽部
原田氏は競技の内容、ルール、選手の養成、競技施設、運営法など東京モーターボート倶楽部のメンバーの協力を得ながら作成した。何よりも急務なことは選手の養成で、1951年に「モーターボート競走会連合会」が設立され(原田競技部長)、大村選手養成所ができたのでそこで東京モーターボート倶楽部のメンバーと共に自ら指導し選手を養成した。翌年1952年3月に資格試験を行い、登録選手第1号が誕生した。ボートは東京モーターボートクラブ時代のレース艇ランナバウトを見本として作られた。エンジンは問題であった、戦時中軍需品として船外機を作っていたメーカーのほとんどが生産を中止していたためである。しかし戦前開発された「キヌタ」が生産を継続できることになったので「キヌタ」が競艇用の最初の制式エンジンに採用された。
こうして1952年4月、長崎県の大村競艇場で第1回の競艇が実施された。原田氏が競技委員長に就任し、なんとかこの第1回のレースを成功させることが出来た。好奇心も手伝って9000人の観衆が集まったそうである。
それから約70年、今や競艇は競馬に次ぐ人気で、テレビ放映もされている。はじめのうちはとにかく勝つのは1号艇であったが、やがて3号艇の「差し」や6号艇の「まくり」などの戦法が出てきてレースとしての面白さが増したことも人気上昇の一因と思う。
公平性のため現在競艇用のボートとエンジンを作っているのはヤマト発動機1社であるが、ヤマトでは毎年約1600台のボートとエンジンを生産している、そしてこの新艇、エンジンは4月の年度替わりに各競艇場に納められ、約2か月の間にすべて新艇・エンジンに入れ替えられている。